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為末大さんの対談

[2024.04.24]

https://youtube.com/live/ofDU3b5-LW8?si=jmE6vy29t32HlGaA

弁護士の倉持麟太郎さんと陸上元オリンピック選手の為末大さんによる、今の日本の問題と個人の幸福がテーマの対談。とても面白かったです。

陸上に青春の時間を全て費やし、その後世間に出て社会と自分とのあまりのギャップに当惑したという為末さんの話を聞いていて思い当たる節を感じた人の中には、アスリートだけでなく、青春の大半を勉強に捧げて例えば医学部に受かったような人もいるかもしれません。もしくは東大一直線だった政治家や官僚とか。

そのように、若い時のかけがえのない経験を欠いた人達が世間に出たり、場合によっては社会の上に立ち人を動かす存在になった時に、その人がどうなり、また動かされる方の社会がどうなるか。為末さんと同じアスリートで言えば大谷翔平さんのように聡明で完璧に見える人ですら通訳に騙されてしまっている所をみると、あちこちで発生している問題なのかもしれません。

社会を変えようとするためにはまず自分が変わる必要があり、手の届く範囲で良いので自分にできることをやっていくしかない。対談の鍵はこの点だと思います。

日本の問題を語る識者は数多くいますが、日本の問題を俯瞰的に見る必要性については言うまでもないとしても、ほぼ全員主語が大きすぎると常々思っています。例えばメディアによく出てくる社会学者の宮台真司氏。「日本人は知的に劣化している」と言い続けていますが、毎回何のテーマでも彼の結論は大体同じです。主語が大きいため議論が雑になるのはまさに知性の劣化ではあります。ただし宮台氏自身のですが。

宮台氏はリベラルと言われる部類の人ですが、逆に保守の人たちの「LGBT法を通したら日本が終わる」「外国人を入れたら日本が終わる」などという論調もそうです。焦る気持ちは分かりますが、「日本」というのは主語大きすぎです。主語が大きいので結論が抽象的で、結果的により見えない恐怖を煽るような主張になっています。

主語が大きいことで、主語に含まれる個人はかなり免責されてしまいます。社会が悪いのは誰かのせいであり私は別に悪くない、という発想が助長されてしまうようでは、宮台氏や保守の話に溜飲を下げることはできても、では社会を良くするために自分はどうすればいいのか、という話になった時に、選挙活動やデモの参加ぐらいしかやることがなくなってしまいます。もちろん、選挙もデモもとても大事なものですが、次にそこで問われるのは選挙やデモを成功させるための方法論となり、個人のあり方や成長が根本的に問われることはやはりなくなってしまいます。宮台氏はこのことに気づいているように見えますが、その割にいつも結論が変わりません。そういう所がリベラルの弱点かなと。

実際宮台氏も女性問題があったりして、実は自身を幸せにできていないように見えます。逆に、倉持さんは過去に色々あったようですが、現在の為末さんと倉持さんの話を聞いているとまあまあ幸せそうに見えます。語る側の資質が大事というのはリベラルについてはとりわけそう思います。

倉持さんが言う「リベラルとは自身の言動について常にこれで良いのかを問い続けるもの」という定義であれば、私もできればそうありたい(そうなっていないかもしれませんが)と思います。逆に、今のSNSなどでよく見る「リベラルな私の主張は正しく、意見の違う人間は反知性または非科学であるため政府はもっとそれらに規制をかけるべき」のような人達とは200%相容れません。コロナ禍はリベラルの本来の意味を炙り出したと思います。リベラルをうたう人達がSNSに閉じ込められた後は、静かに言葉の定義が崩壊し、今後定義そのものが変わっていくでしょう。

では「私」はどのように変われば良いのか。倉持さんも為末さんもまだ考えの途上でしょうが、それはそれでよいと思います。自分も考えたいと思います。対談の時間が短すぎたので次回に期待しています。

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