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宗教的無関心と移民

[2023.12.30]

イスラエルとハマスの戦闘は予想通り長期化の傾向を見せ、ガザの惨状は年を跨いでも引き続き報道されていくものと思われます。

もうすぐ新年を迎えるのに食べるものにも困っている現地の人達に心から同情しつつも、多くの日本人の心の中には同時にこういう思いがよぎるのではないかと推察します。

「なぜそこまでして戦わないといけないのか」

戦争自体は戦争で利益を得る人達がはじめたものとはいえ、民衆が支えないと戦争が成立しないのも確かです。パレスチナとイスラエル双方に大義名分がありますが、突き詰めればそれは宗教的理由で、それに親しい人の敵討ちや数々の差別的政策への不満、経済的不利益などから来る民衆の鬱積した感情が戦争を強力に支持しています。

我々にとっては、宗教的理由以外の部分に関しては大いに頷けるものの、核心となっている宗教的理由の部分がよく理解できません。ざっくりした理解では、キリスト教もイスラム教も(ユダヤ教はよく知らないけど)、確か平和を謳っている宗教のはずで、ユダヤ教も同じアブラハムの宗教なのだから、どうしてもっと仲良くできないのか、と思うわけです。

日本でキリスト教やイスラム教が浸透しなかった大きな理由は、「平和を謳う宗教の信者が常に殺し合いをしている」ということを、はたから観察して常に感じてきたからではないかと思っています。それを「日本人は宗教アレルギー」って言われてもなあ…というのが正直な感想でしょう。

日本には長い鎖国時代がありましたが、これもごく大まかに書けば布教を理由に浸透しようとした外国勢力が脅威だったからということで、当時の日本はキリシタン弾圧も行いました。学校でこの時代を勉強した時「封建時代の政府がいかに酷かったか」という文脈で教えられた記憶があります。しかし現在からみると、当時の鎖国と宗教弾圧が外国の浸透から日本を守り、ひいては日本の植民地化を防いだ可能性もあるということになります。そうであれば当時の政府はよくやったとしか言いようがありません(この説明には異論もあると思いますがとりあえずこのまま進めます)。

いや、キリスト教もイスラム教も本当は平和を愛する宗教で、一部の過激な人達や教えを守らない人達、もしくは信者を名乗りつつも他の思想にかぶれた人達が戦争やテロをやっているのだ、と宗教者はいいます。今日もテレビで「ガザでは戦争が起こっているが宗教は本来平和を愛するもの」という説教をしている人がいました。

それは正しく、いずれの宗教も平和を愛しています。

問題は、「平和の定義が宗教によって異なる」ことです。

例えばイスラム教は「実は男女平等」な宗教なのだといいます。しかし多くのイスラム教の国では男女の役割が固定化し、国によっては女性が明らかな差別を受けている場合があります。しかしこの男女の役割固定、つまり女性の自由の制限が「女性を守るため」であると言えば女性を彼らなりに尊重しているということになるかもしれません(イスラム教の女性観については詳述記事あり)。しかしこの価値観を欧米社会に持ち込めば明らかに女性差別になります。

同様に、同性愛者を認めないのはイスラム教の教えであり、欧米が「それは間違っている」と言った所でイスラム国家の政策が変わるわけではありません。キリスト教も本来男女平等でもなく、同性愛者を差別してきたはずですが、リベラリズムの台頭(宗派にもよるが、現在ではこのリベラリズムがある程度キリスト教の規範と化しているようにみえる)により現在は平等主義的です。

さらに、イスラム主義者たちが望むのは全世界のイスラム化であり、欧米の思い描く平和とはかけ離れています。「ガザの平和」と言った時、パレスチナとイスラエルで思い描いている像は全く違うはずです。キリスト教はここまで排他的でないにしても、一神教であり、やはり排他的な傾向は内包していると思います。

イスラム教の思想は強固で、「違う価値観を持つ人がお互い共存できるように」相手の自由を尊重するリベラリズムの浸透を阻んでいます。お金で頬をひっぱたけば言うことを聞くかと思いきや、実は少なからぬ国が欧米の唱えるリベラリズムが本気で嫌という感じで、欧米は国際社会でなかなか意見をまとめあげることができません。

もし、リベラリズムを全世界に本気で広めようと思うなら、リベラリストが全員道徳者になれば必ず広まると思いますが、現実にはダブルスタンダードの人「しかいない」ような状況なので無理です。うまくいけばリベラリズムは、平和の定義を統一し、地球市民が平等に生きる理念を形成するはずでしたが、ヤクザドラマ「世界統一」よろしく各種宗教などとの覇権争いに加わってしまったことがそもそもの失敗でした。

日本ではどうかというと、日本人はリベラリズムの考えにはかなり共感したと思います。もともと辺境の有色人種でマイノリティ、欧米のような激しい人種差別や同性愛差別はなかった(とはいえ差別自体はあったが)ため、平等主義は比較的受け入れやすかったのかもしれません。

しかし宗教的テーマがより明確なイシューについてはどうか。

例えば死刑制度について、欧米では廃止となっている国が多いものの日本では存続し、死刑廃止論はそこまで盛り上がりません。安楽死についても消極的、中絶に反対する人も一部、遺伝子組み換え農産物についても、食の安全性が確保されればさほどの関心はなさそうです。これらのイシューにはリベラリズムも関わっており、伝統的キリスト教思想と折り合いの悪いものもありますが、これらのイシューについて、日本はどちらにもついていないようにみえます。

背景にはやはりキリスト教的思想に対する無関心、というより微妙な反感があるような気がするのです。ではリベラリズムにつけばいいのかというとそうでもないのは、覇権争い中のリベラリズムが建前を捨てて一種の宗教に転化する危険性をどこかで感じているからかもしれません。

リベラリズムは覇権争いや布教活動ではなく、みずから輝く価値によって世界に広まるべきでした。今のSNSに跋扈するリベラリストは、反対にまるで布教に熱心な信者を彷彿とさせます。さらに、言葉狩りやポリコレのような異端排除的ムーブメントが一層の宗教っぽさを演出してしまいました。こうなると最初はリベラリズムにかなり好意的だった日本の庶民も「ちょっとなあ…」となってしまいます。(付け足すと、アメリカがリベラリズムの総本山みたいになってしまったことも、ダブスタ&正義の押し売り感がさらに増す原因の一つになりました。)

さて、地球市民という観点からすると、リベラリズムの浸透→他者に寛容な社会→移民受け入れという路線が決まります。日本は島国で移民や難民が来にくいという理由以外に、日本語(特に書き言葉)が難しい、英語が通じない、よそ者に冷たい地方、そして宗教に対する無関心などの見えない壁があったため、難民や移民の受け入れには常に消極的でした。今後少子化時代に向けて移民をさらに受け入れていくかどうかについては色々な意見があるでしょう。移民の受け入れに際しては、このリベラリズムを一種の宗教として排斥していくのか、それとも普遍の価値として、日本流に咀嚼した上で取り入れていくのかという姿勢が問われていると思います。考えないのが一番良くないので、少なくともきちんと考えるべきです。

おそらく多くの平和的宗教者は日本に移民受け入れを促すでしょう。その際、彼らの宗教は何であり、本当は何を目指しているのか、を見極めることはとても大事です。

✳︎今回「〜と思う」など、全体に推測が中心の文章になってしまいましたが、あくまで雑感ということでお許しください。

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