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現実主義者

[2025.01.22]

西成のマザーテレサについての記事を最近見ました。これは15年ほど前に大阪の西成という、日雇い労働者の町で34歳の女医さんが亡くなった事件ですが、その死因については色々な理由から他殺説もあるようです。

女医さんは群馬の方だったようですが、年齢が私と比較的近く、また私自身医学生時代にキリスト教関連の医療者の集まりに参加したり、西成のボランティアに参加したこともあったため、この記事には目を引かれました。

ただ私が彼女と違った所は、キリスト教者にもならなかったし、結局普通に大学の医局に入って普通に研修したということです。

私が大学時代を過ごした京都は学生の街で、キリスト教の教会も多くあり、他にもボランティアや左翼団体や、左派キリスト教教会など、色々な団体がありました。京都に来てからいくつか教会に行き、キリストの教えを聞いていたのですが、教えの中でとても素晴らしいと思う点とどうにも納得できない点がありました。結局納得できない点が勝ってしまい、大学の高学年で教会に行くことはやめました。

大学の先輩の中にはキリスト教の方もいて、卒業して(おそらく西成のマザーテレサと同じ)大阪のキリスト教系病院に就職した人もいました。先輩方は優しく真面目な人達でしたが、当時から私は「どうして色々な疑問をクリアして信者になりきることができるのだろう」と思っていました。先輩の笑顔を近くで眺めながらその点がどうしても理解できませんでした。

キリスト教つながりで西成に行った時に見たのは、今まで自分が経験したことのなかったような街の様子でした。冬に行ったので通りで亡くなっているホームレスの人もいました。近くの飛田新地(昔ながらの売春を行う店が並ぶ地域)にも行きましたがこれはほとんど観光のようなものでした。ボランティアをしていて、町を通り過ぎる普通の人達の視線を感じ、ホームレスのおじさん達がいつもどういう目にさらされているのかをわずかながら肌で感じることができたと思いました。

西成で炊き出しをやっているボランティアのおばちゃんたちにも会い、大阪のおばちゃんたちのバイタリティーに自分も元気をもらえましたが、残念なことに私自身は陰キャだったため、そういうエネルギーがそもそも自分にはないと自覚するほかありませんでした。

その後海外医療協力の見学としてバングラデシュに行きました。日本では決して得られない経験でした。

こうした活動に学生で参加していたため、卒業してその道に進むという選択も十分ありえたわけですが、大学を出たばかりの私は医師としての自分の実力のなさを痛感しており、この状態で海外に行ってもとても協力にはならないと考え、大学病院で研修することとしました。

というか何よりも「キリスト教を信じ切れなかった」ということがのちのキャリア形成に結構影響したのかもしれません。

大学で研修するという選択は後で考えると必ずしも正しくはなかったのですが、とにかく研修医生活は忙しく、そのほか生活上の色々なトラブルもあり、海外医療協力は次第に現実の選択肢から遠くなっていきました。今でも時折海外で活躍されているお医者さん達の報道を見ていて、本当に素晴らしいことだと思います。

西成のマザーテレサの活動も本当に素晴らしいものだったのでしょう。

一方で、過去の自分を振り返ってみると、その頃の私は「西成のおっちゃんたちも人間なのだから話せば心が通じる」と思っていた節がありました。今にして思えはそれは本当におこがましい考えでした。自分という境界や限界を正しく認識できていなかったからこそそうした思い上がりにつながったのでしょう。

実際に自分が仕事をして色々な人と関わったうえで、話がお互いに全く通じない人が一定数いるということを痛感したのは少し後になってからです。西成のおっちゃん全員と話が通じないわけではないでしょうが、西成の色々な理屈が自分の理解を大幅に超えるものだったかもしれない、ということは今になってわかることです。

私は過去にあちこちで仕事をしていて、西成ではないのですが、いわゆる貧困ビジネスを明らかにやっていそうな病院に行ったこともあります。西成のマザーテレサはそうした不正の糾弾もしようとしていた(ために犠牲になった)という噂もあるようです。それは正しくやるべきことであったのでしょうが、本当に困難を伴うことであったでしょう。(今は事件当時と違ってSNS時代なので、もし彼女の活動が現代であれば身の危険はある程度回避できていたのかもしれません。)

何が言いたいのかというと、西成のマザーテレサはおそらくですが理想主義的な人だったのではないかということです。理想主義的な人は何かを成し遂げるエネルギーを持っていて、それはその人の理想によって裏付けされているものです。

一方でそうした理想論のどこかに無理や疑問を感じてしまうと、何かを成し遂げるエネルギーに対抗してしまうため、エネルギーは弱くなってしまいます。自分に大きなことができないのはこのブレーキがかかりやすいからです。いい言葉で言えば、現実主義的ということです。

医者の中でも、海外協力や臨床研究、病院の経営、新たなビジネスの展開など、活躍している人はたくさんいます。彼らは聡明であり、かつどこかで理想主義的でもあり、そのことが大きなことを成し遂げる原動力になっています。それは本当に素晴らしいことです。

私も若い頃はそれでも、もう少し理想主義的な面もあったかもしれません。キャリア途中から東洋医学の面白さに気づき、一時は本当に東洋医学マニアだったと思います。自分が東洋医学をより信じていた頃の方が、患者さんに説明するときの熱意もありましたし、ビギナーズラック的に効いた症例も経験しました(そうでないことも往々にしてありましたが)。

今の私は東洋医学を信じている、というよりは使い方を知っているというのが近く、東洋医学の効果も限界もある程度把握できているという感じです。もう少し理想主義的に東洋医学の可能性を信じて追及すべきなのかもしれません。その方が当院もより特色あるクリニックになれると思います。

ただ、信じるという行為は往々にして、自分の中に生まれた疑問を無視したり、自分に都合のいい話にすり替えたりする可能性をはらんでいます。どこかで自分に嘘をついている理想主義者、というのは世間に割といるように思います。とくに代替医療領域にこの種の理想主義者が目立つ気がしますが、論文の研究不正などもある意味同じことなのかもしれません。(ちなみに私の母校でも過去にわりと大き目の研究不正がありました。)

学会誌で見る東洋医学の論文の中には正直「?」と思うものも結構ありますが、そうしたものも「東洋医学は驚くべき不思議な効果がある」などの言葉で「そういうこともあるよね」という風に流されてしまいます。確かに東洋医学には理屈で説明の難しい部分のありますが、それは色々な疑問を曖昧にしていいということではありません。かといってあまりに現実主義的だと臨床の幅がかなり狭くなります。理想と現実のバランスをとるのがやや難しいのが東洋医学と言えるかもしれません。

東洋医学に限らず、医療はEBMに基づき、科学的根拠を持ったクリアカットなものである、とするのはこれまた理想主義的な話であり、実際は前近代的要素を思ったよりも含んでいるものです。その中で、医療というものをどこまで信じ、医療に理想を抱き行動していくのかという所には、臨床を行う人それぞれの落とし所があります。それがその人の個性であり、その人の医療における倫理的規範ともなりえるものでしょう。

病院のキャッチーな特色にはまずならないでしょうが、私個人はやや現実主義に傾きやすい自身の傾向を理解した上で、医療における理想と現実をどうバランスしていくのか、という自身の問いにこれからも答え続けていきたいと考えています。

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